訃報
大森工業高校時代から大森学園高校サッカー部のスーパーサポーターであった、福重 正治氏が永眠されました。増田先生と小川の顧問二人体制の時は、合宿の手伝いから、部員を食事につれて行ってくれたり、移動の車を提供してくれたり、新入部員歓迎会の開催など、保護者会が無かった時代に御一人で大車輪の活躍をされた方です。ご子息が卒業してからも、変わらぬ貢献度で、まさに大森学園高校サッカー部を牽引してくれました。
近年は体調を崩されて、お会いする機会がメッキリ減ってしまいましたが、20代後半のOBたちは、かなりお世話になったことでしょう。遠征などの移動の際、福重車に乗ると、帰りにご馳走にあり付けたとか(笑)
OBたちの計らいで、部を代表して福重さんの墓参りをしてきました。シゲさんはもともとラガーマン。食の細い現代っ子をいつも気にしていました。そして、いつも腹一杯のメシを、部員たちに振舞ってくれていました。
墓前に立つと、シゲさんと過ごした時間が、昨日の事のように思い出されました。いつも協力ばかり求めて、急なお願いでも「いいよ。」と二つ返事で断られた記憶がありません。
忘れもしない、小川が本校に赴任して3年目の選手権。1年生から手塩にかけて?(ハチャメチャに)育ててきた生徒たちが3年生となり、インターハイ予選で支部大会を勝ち抜き、本校久しぶりの都大会出場。都大会でも勝利を上げ、迎えた選手権。そもそも、ボールを転がして蹴り返した生徒を無理やり部員にしたり、テストの点数が低い生徒を脅して部員にしていたので(当時小川は国語の教員でした。信じてくれないでしょうが)、簡単に勝てる訳ありません。ブロック準決勝では立正大立正に逆転勝ち、決勝は東海大高輪台。押されっぱなしでしたが、これしかないと練習していたカウンターで後半1点をもぎ取って二大会連続の都大会出場を決めました。シゲさんの喜びも半端なく、部員全員に練習着をプレゼントしてくれました。そしてその練習着を身にまとった我々は都大会ベスト8をかけて当時まだクレーのグラウンドであった東久留米総合高校(都立久留米)で都立久留米高校に挑みました。前日の雨でグラウンドコンディションは最悪。でもそのグラウンドが我々にとってはグッドコンディション(笑)。キックオフから押し込まれますが、見事なカウンターから目の覚めるようなシュートを挨拶代わりにお見舞いして、ちょっとビビらせ、そのあとは12人で守っているんじゃないかというぐらいの鉄壁の守備。グッドコンディションのグラウンドが我々に味方して、久留米の選手たちを苦しめてくれました。後半になると、攻められることにも慣れてきて、攻められっぱなしだけど、一進一退っぽい試合展開で守り切り、延長戦へ。当時は延長Vゴール方式でした(決めればその時点で試合終了)。そしてこの日一番のビッグチャンスが大森工業(当時)に訪れます。ロングボールから前がかりになったCBと絶妙なタイミングで入れ替わって、背後に抜け出した主将の吉岡が、キーパーとの完全な1対1を見事に外して、勝利の女神からそっぽを向かれました。そしてPK戦かと思われたラストに、右サイドの寄せが甘くなったところを、良いタイミングでセンタリングを上げられ、目の覚めるボレーを叩きこまれて無念のラウンド16敗退。※その後久留米はウチに苦しんだお陰でチームから油断が消えたのでしょう(私が勝手に言ってますが)、準決勝まで進み、活躍されました。(だよね、加藤悠先生!現在東久留米総合の加藤監督が当時3年生でした。)
シゲさんからプレゼントされた真っ白な新品の練習着が、あっという間に真っ黒になり、なぜ白を選んだろうと皆が思った伝説の試合(大森学園内のみでの伝説)が、涙で終戦となりました。
シゲさんとの話は、話せばキリがありません。サッカー以外でも本当に豊富にあります。OB諸君、コロナが落ち着いたら皆で集まってシゲさんの話で盛り上がろう。
思い返せば、シゲさんには与えてもらってばかりで、何にもお返ししていません。シゲさんを西ヶ丘に連れて行ってあげたかったなぁ。
シゲさん、本当にお疲れさまでした。ゆっくり休んでください。天国から大森学園高校サッカー部を見守っていてください。今度は我々が、シゲさんに勝利をプレゼントします。一緒に西ヶ丘に行きましょう!